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田中ひさお市長

建設談合、事業独占、公共事業私物化の疑い

―山梨県―

地元の市民団体が問題提起

 

山梨県の中央市長選挙は、1846票差で田中久雄氏の3選となった。(選挙ポスターなどでは「田中ひさお」と表記)

開票結果は、田中市長が約58%、対立候補が42%の得票率。前回の無投票から田中市長への不満票は大きく膨れ上がった。そんな中、山梨県の市民団体が、「田中市長4選を阻止するために、中央市における『建設協力会』とのただならぬ関係を調査追及し、市民に公表したいと思います」として、中央市の平成25年度の公共事業入札状況を公表した。

(※中央市「平成25年度・公共事業入札状況」の閲覧を希望する方は、画面右上の「お問い合わせ」からPDFデータの送信先を記入してお申し出下さい)

 

この平成25年度の公共事業入札状況を見た限りでは、多くの公共事業は平均95%を軸に推移し、山梨県、特に中央市では談合が常態化しているとも見て取れる。

 

3町村合併の時、田中市長は「入札制度改革委員会」を設置して、入札制度改革への意気込みを見せたが、談合の疑いを指摘された議会答弁では「落札率は公正な数値」で、「落札額は企業努力」と豹変した。それはなぜなのか―

 

前出の市民団体の広報担当者は、「限られた建設業者だけが田中市長のもとで恩恵を受ける一方で、弱者は片隅に追いやられる、それがあと4年間続くことになったのです」と憤り、「建設談合、建設利権をほしいままにする『中央市建設協力会』の傀儡である田中市長は、政治のなんたるかを学び直す必要があります」と訴える。そして、次のように続ける。

 

「政治とは、正義を行なうことに主眼が置かれなければなりません。卑しき自己肯定のために、落札率は公平とし、落札額は企業努力という田中市長は、談合の労力を正しいとして、その結果を公平と言って憚(はばか)りません。入札制度改革という正義を実行することなく市民を裏切ったのです。自らに不利益をもたらすとの恐れから、選挙に非協力的な業者をほとんど指名せず、有益をもたらす建設協力会会員企業には、公正取引の本質を度外視した指名を優先する田中市長の3選は、中央市の財政を建設談合による利権で食い荒らすことになるでしょう。」

 

昨年度の中央市の公共事業入札状況を確認すると、49件中90%を切って落札したのがたった一件、工事費の軽減につながる一般競争は一件もない。すべては中央市の裁量権に委ねられた指名入札だ。

 

中央市の指名を得るためには実績を重ねなければならないが、指名されなければ実績を重ねることもできず、入札に参加できない状況はいつまでも続く…そんな構図である。

 

新たに指名に参加させれば入札額が下がることが予測され、「中央市建設協力会」、すなわち田中市長自身の不利益となる。これを反対に言えば、市民の不利益の上に田中市長と「中央市建設協力会」が立っているということだ。

 

一般競争入札を導入すれば適正な落札が行われ、市の財政負担は少なからず削減できるはず

 

田中市長、および中央市議会与党が「中央市建設協力会」に利益を誘導しているのなら、確かに正義に反している。そもそも、露骨な利権構造の保護は市民への裏切りだ。入札制度改革という正義を実行し、開かれた入札による公平・公正な制度へと移行することによって一般市民と地元建設業界全体に利益をもたらすべき、という主張は正論である。

 

山梨の偉大な先覚者である山縣大弐(やまがた だいに)は、「政治とは、常に人々の幸せを心から願う者が行わなければならない」との考えのもと、「真に万民の幸せを希求する」のが為政者だと説いた。

のちに明治維新に大きな影響を及ぼした吉田松陰は、山縣大弐の思想に触れ、はじめて尊皇倒幕へと路線転換をしたことを思えば、山梨県と明治維新は、遠からぬ関係なのだと判る。その山縣大弐の思想に田中市長は恥じることはないのだろうか。

 

「先の市長選挙の得票率に差はありましたが、決して大差ではありません。田中市長派は、ほくそ笑んでいるかもしれませんが、無投票再選の前回から四割以上の反対派を確認できたことは大きな意味がありました。五分五分ではありませんでしたが、七対三ではなく、六対四であったことにこそ中央市民は着目するべきなのです」と広報担当者の訴えは止まらない。

 

市長選挙に投じられた四割を超える票が、田中市長ではダメだと言っている。人々の幸せに思いを寄せない。利権に目がくらむ。万民の幸せではなく、特定のものだけを豊かにする。それは政治ではない。山縣大弐が言っていたのは、まさにそれである。

 

山縣神社を訪れると、郷土の歌人であり文学者である三井甲子(こうし)の和歌が刻まれている碑が目に入った。こうして見ると、確かに、山梨県には「美徳」や「正義」を何よりも重んじてきた歴史がある。そのことを踏まえた政治を、多くの山梨県民も求めているに違いない。

 

山梨県中央市は、環境基本計画で「快適で健やかに暮らせる生活文化都市」を謳っている。行財政改革大綱及び実施計画では、「実り豊かな文化都市」を謳う。しかし、どうだろう。「文化とはなにか」を置き去りにしてはいないか。しているとしたら、そのツケは次世代に回される。その上に文化都市を形成することなど、できるのか。

 

この国には、文化や伝統を忘却し、利便性や物質的な幸福の追求に明け暮れてきた国民がいる。多くが教育を蔑ろにした。その結果、日教組のような変なものが全国に蔓延った。それは山梨県も例外ではない。利権談合が続いてきたとするなら、それを許してきたのも根は同じなのだろう。

 

長年に亘って教育長を務めた田中市長のことだから、「文化とはなんたるか」を理解している、とは思う。だが、山縣大弐の政治理念・思想に反していると言わざるを得ない疑惑に塗(まみ)れているのはなぜなのだろう。

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