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日本男児、藤井一の誇り

 

藤井一は茨城県の農家の長男として生まれ、親は農家を継がせたかったが、本人が陸軍軍人を志願します。歩兵として入隊しますが、優秀だった藤井は陸軍航空士官学校に入校します。

卒業後は熊谷陸軍飛行学校に赴任し、中隊長として少年飛行兵に訓育を行います。藤井はパイロットではなかったので生徒に教えたのは精神訓話でした。藤井がパイロットを志願しなかったのは歩兵科機関銃隊だった頃、支那戦線で迫撃砲の破片を左手に負い、操縦桿が握れなくなったからでした。

 

当時の精神訓話といえば軍人精神を叩き込むことも大きな狙いであり、軍人勅諭にそった厳しい鍛錬がありました。藤井は特攻攻撃が実施される前から口癖のように「事あらば敵陣、或いは敵艦に自爆せよ、中隊長もかならず行く」と繰り返し言っていました。忠誠心が強く熱血漢の藤井は、本来心根は優しくても教育は厳しかったと言います。・・・・・・

 

我が国の特攻作戦が実施されるようになると、大切な可愛い教え子を自分の手で死地へ送り込むことになります。藤井は苦しみ、自責の念にも駆られます。「俺もかならず後から行く」と言って生徒を行かせておきながら、自分はただ座して教育するだけだ。藤井の性格からすると、その繰り返しに耐えられなくなっていました。

 

「このままでは自分は教え子との約束を果たすことはできない」他の教官たちは何の疑問も矛盾も抱かずにやっていることでしたが、自分に厳しい藤井にはそういう自分が許せませんでした。

「自分の教えを守って、次々と将来ある純粋な教え子たちが毎日、敵艦に突っ込んで行く。あいつも、あいつも・・・。 俺はいつまでこんなことをしているのか」

藤井はついに特攻を志願します。しかし、既に二人の子どもがいる年長の将校は受け入れられませんでした。さらには学校を仕切っている重要な任務を離れられては困るからでした。「自分の立場での責任を果たせ」という軍の言い分は当然でしたが、藤井はどうしても生徒だけを死なせることができませんでした。

 

生徒と教師の間の命をかけた誓い、その男の誓いを藤井はどうしても破るわけにはいかなかったのです。断わられても藤井は特攻を志願します。 藤井の妻 福子は高崎の商家に生まれ、お嬢さんとして育ちました。戦争中は野戦看護婦として活躍していました。支那で負傷した藤井の世話をしたのが福子でした。これがきっかけで結婚します。

 

藤井は妻の福子と三歳になる一子、生後四ヵ月の千恵子の四人で暮らしていました。福子は夫が特攻を志願していることを知り驚きます。学生たちとの約束のために、妻と二人の子供を見捨てて、軍人なのだから戦場に行けば戦死することは覚悟していますが、特攻の許可が出ない立場の人間が、何度も特攻志願をするというのは、死ぬために行こうとしているとしか思えませんでした。

 

二人の子を持つ母として特攻志願することに納得できず、夫を説得します。しかし藤井の性格を誰よりもわかっている福子は藤井が一度決意すると最後まで変わらないこともわかっていました。

 

そして、昭和19年12月15日の朝、藤井の家の近くを流れる荒川に、二人の子供を紐で結びつけた母子三人の痛ましい溺死体が浮かびました。晴れ着を着せた1歳の次女千恵子をおんぶし、3歳の長女一子の手と自分の手をひもで結んだ3人の痛ましい姿でした。 すぐに熊谷飛行学校に連絡されました。知らせを受けた藤井中尉は鳴田准尉と一緒に現場に駆けつけました。師走の荒川は凍てついた風が吹きつけ物凄い寒さでした。流れの中を一昼夜も漂っていた母子三人の遺体は、三人一緒に紐で結ばれたままそこに並んでいました。

 

うめくような声で藤井が言います。「俺は、今日は涙を流すかも知れない。今日だけは勘弁してくれ。わかってくれ」藤井は涙を隠すように、三人の前にうずくまって、やさしくこするように白い肌についていた砂を手で払います。

 

いつも豪快な藤井がうめくように泣く・・・。嶋田は藤井の深い悲しみが伝わって声も出ません。遺書は二枚の便箋に書かれていました。「私たちがいたのでは後顧の憂いになり、存分の活躍ができないことでしょう。お先に行って待っています」藤井の妻らしい気丈な遺書でした。

 

葬式は軍の幹部と家族と隣り組だけで藤井の教え子たちの姿はありませんでした。それは参列することを禁じられていたからです。この事件には新聞記者も飛びついてきましたが、記事は一切新聞やラジオにも出ません。軍と政府の通告によって正式に報道することを差し止められたからです。

 

藤井は葬式が終わった夜、死んでいった一子に手紙を書きました。

 

「冷え十二月の風の吹き飛ぶ日 荒川の河原の露と消し命。母とともに殉国の血に燃ゆる父の意志に添って、一足先に父に殉じた哀れにも悲しい、然も笑っている如く喜んで、母とともに消え去った命がいとほしい。父も近くお前たちの後を追って行けることだろう。嫌がらずに今度は父の暖かい懐で、だっこしてねんねしようね。それまで泣かずに待っていてください。千恵子ちゃんが泣いたら、よくお守りしなさい。ではしばらく左様なら。父ちゃんは戦地で立派な手柄を立ててお土産にして参ります。では、一子ちゃんも、千恵子ちゃんも、それまで待ってて頂戴」

 

けっして読まれることのない、死んだ娘への手紙です。・・・・・・

 

すでに誰もが、藤井には死しかないと理解できました。藤井は自らの小指を切って血書嘆願による3度目の特攻志願を行います。

 

今度は軍も志願を受理しました。藤井中尉を特攻隊員として異例の任命をします。

藤井中尉は熊谷飛行学校で生徒達に大変人気がありました。教えは厳しいが熱血漢で情に厚いということで、生徒達は藤井中尉を信頼し、尊敬し、あこがれを持っていました。

 

藤井が熊谷を去る時は中隊長室に生徒を一人一人呼び、家族のことや思い出話を聞きました。そして最後には「これからの日本を頼むぞ」と言って、若い教え子たちを励ましました。

藤井中尉の送別会では学校の幹部や生徒達で集めたお金で軍刀を贈りました。藤井中尉は大変喜んでいたといいます。しかし、あの事件のことは公になっていないので誰も口にしません。ただ、生徒達は噂で既に知っていました。別れを惜しんで流す涙はさらにつらいものでした。 ・・・・・・

 

昭和二十年五月二十七日

藤井中尉は陸軍特別攻撃隊 第四十五振武隊快心隊の隊長として知覧飛行場に進出。

 

五月二十八日早朝

第九次総攻撃に加わり、隊員10名と共に沖縄へ出撃。

 

「われ突入する」の電信を最後に、還らぬ人となりました。

藤井一 29歳。

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