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虚構の南京大虐殺 

 

虐殺なき「証拠映画」…嘘で相手を告発する悪習 「日本人から入手」説明の威力

 

 「日本軍が武功を誇示するため現地で撮影した屠城電影(虐殺映画)」

 中国の申請で国連教育科学文化機関(ユネスコ)記憶遺産に登録されたという「(元陸軍中将)谷寿夫に対する南京軍事法廷の判決」にある記述だ。

 「南京大虐殺の証拠」と位置づけられているこの映画は、タイトルこそ書かれていないが、立命館大学名誉教授の北村稔は、裁判記録や当時の中国の新聞記事から「『戦線後方記録映画-南京』だとしか考えられない」と語る。

 映画「南京」は、1937(昭和12)年の日中戦争勃発後、東宝映画文化映画部が製作した記録映画で、旧日本軍が南京に入城した翌日の同年12月14日から38年1月4日にかけて撮影された。中国が主張する「大虐殺が最も激しかった時期」と重なるが、虐殺のシーンは全く登場しない。

 旧日本軍による戦死者の慰霊祭や兵士らが正月飾りの準備や餅つきをする様子、新年に行われた南京自治委員会の発足式、旧日本軍発行の「良民証」(身分証明)を求め、殺到する南京市民らの姿が収められている。南京の子供たちは爆竹を鳴らして遊び、楽しそうな笑顔を見せている。

 無論、映画「南京」は当時の南京のすべてを記録しているわけではない。だが、映し出された光景は「大虐殺の証拠」とはあまりにもかけ離れたものだ。

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 陸軍第6師団(熊本)を率いた谷は37年12月の南京攻略戦で中国側に恐れられたが「世界を震撼させる大虐殺を引き起こした」として死刑判決を受けた。

 裁判は中国人の裁判官、検察官、弁護士らで構成され、谷の反論や元部下らを証人として求めた訴えは一顧だにされなかった。一方で中国人の「被害」証言は無批判に受け入れられた。

 数万単位の数をひと桁まで1人で数え、5万7418人の「虐殺被害者」を見たとする魯甦という人物の「証言」も証拠として採用された。それらに基づいて「虐殺の総数は30万人以上に達する」と認定した。

 47年4月26日午前11時、谷は南京の刑場で銃殺刑に処された。市内を引き回された後、千人を超える市民が取り巻く中での公開処刑だった。

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 「南京陥落時の混乱はあったにせよ、映画『南京』の記録映像は、中国が主張する『6週間にわたる30万人の虐殺』などなかったことを物語っている」

 映画が持つ意味をこう指摘する北村は、中国特有のある「文化的伝統」の存在に注目する。

 「中国には嘘で相手を告発する誣告(ぶこく)の伝統があり、文化大革命期にも誣告による冤罪で、多くの人が殺された。『30万人』という数も、誣告の集積として形成された『虚構』と見るべきだ」

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 1938年1月のある日、江蘇省南京市の写真店で働いていた15歳の羅瑾は、日本軍少尉が現像を依頼したフィルムをひそかに焼き増しし、1冊の帳面に貼り隠し持っていた。写真帳は紛失したが知人の呉旋が拾って保管し、南京軍事法廷に提出された-。

 中国が国連教育科学文化機関(ユネスコ)記憶遺産に登録されたとする「南京大虐殺資料」のひとつ「南京市民の羅瑾が、死の危険を冒して保存した16枚の写真」にまつわるエピソードだ。16枚は元陸軍中将、谷寿夫の裁判でも「第一級の証拠」として採用された。

 見物人が取り巻く中、ひざまずく男性の首を兵士が刀で切り落とそうとする数カットが確認できる。だが、いずれも撮影日時や場所、撮影者は不明だ。南京戦は12月だったにもかかわらず、写っている人物が半袖姿であるなど、不自然な点も多い。

 16枚の多くと同じ場所で撮影されたとみられる写真は、中国国民党のプロパガンダにも使用されていた。

 米国立公文書館が保管する米陸軍省参謀本部の通信記録のなかで、在北京米国大使館陸軍武官のジョセフ・スティルウェルが報告に添付した写真だ。計20枚の中に兵士がひざまずく男性の隣で刀を持つ写真が出てくる。

 20枚はオーストラリア人ジャーナリストのファーマーが38年12月にスティルウェルに送った。ファーマーにはもう一つの「顔」があった。中国国民党の対外宣伝機関、国際宣伝処に雇われたエージェントだったのだ。米国に日本軍の「残虐性」をアピールするねらいがあったとみられる。

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 国民政府のトップ、蒋介石の肝いりでできた国際宣伝処は、国際社会の中国支持を獲得するため、各地で反日プロパガンダを展開した。その一つがやらせ写真などを使った宣伝だった。20枚も撮影の日時や地点、撮影者はすべて不明だ。写っている「兵士」が南京戦当時と違う服装をしているなど、南京とは無縁の写真である疑いが強い。

 ファーマーは、写真に添えた手紙で「同封した写真はすべて日本人のところから来たものだ」と記した。16枚と共通するこの説明は、国際宣伝処が繰り返し用いたものだった。

 「いつ、どこで、誰が撮影したか不明な写真は『南京虐殺』の証拠とはいえない。だが、『日本軍人が撮影した写真を入手した』とする説明は、出所不明の写真の信頼性を高める」

 国際宣伝処の活動実態を研究し、記録をみつけた日本大学人文科学研究所の研究員、中田崇は写真の“威力”をこう分析。そのうえで20枚と同様、「16枚の写真もプロパガンダ用だったとみてよい」と指摘する。

 国民党と共産党の違いこそあれ、信憑性を欠く「虐殺」写真の記憶遺産登録は「戦時プロパガンダを史実として固定化させる試み」(中田)に他ならない。

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 中国が登録されたとする11項目には、十数分の無声映像「マギーフィルム」も含まれている。米国人宣教師ジョン・マギーが日本軍占領直後の南京を撮影したフィルムだが、けが人の映像などはあるものの虐殺を「証明」する場面はない。

 マギーは東京裁判の法廷にも立ち、旧日本軍による殺人、強姦、略奪を証言した。ところが、自ら目撃した殺人の件数を尋問されると「日本兵を見て逃げ出した中国人が射殺された1件だけだ」と答えた。

 「大虐殺」の様子を書き留めた唯一の中国人とされる程瑞芳の日記も、11項目の一つに挙げられた。中国は盛んに中国版「アンネの日記」と宣伝するが、伝聞ばかりが目立つ。

 旧日本軍の暴行が最も激しかったはずの37年12月後半の日記でさえ「大虐殺」を裏付ける記述は見られない。程は46年8月、東京裁判に提出した口供書で、兵士による強姦などについて述べたが「大虐殺」に関する証言はしなかった。

 記憶遺産にまで登録された「南京大虐殺」を認定した東京裁判は来年、開廷から70年を迎える。記憶遺産の資料とともに、裁判も改めて検証する必要がある。

(敬称略)

 この連載は太田明広、河崎真澄、田中一世、原川貴郎、矢板明夫が担当しました。

(産経新聞/2015.12.17)

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