建国の回想を次の日本の創造へ
文芸批評家・新保祐司
今日は、建国記念の日である。祝日の一つであるという以上の感慨を懐(いだ)かない人も多いのではないかと思われるが、正直、私も中年になるまではそうだった。
しかし、自分が日本人であることを強く意識し始めて、日本とは何かということを考えるようになってからは、この祝日を大切にしてきた。
日本の精神史の断絶
この祝日は、明治初年に神武天皇即位の日を
2月11日とし、その日を紀元節と命名
したことから、戦前は紀元節とされていた。
明治は、いわば一種の建国の時代である。
それ故に、神武天皇の建国を紀元節の名に
よって回想する必要があった。明治維新の際の
王政復古には、神武創業の根本にまで遡(さかのぼ)
るという意図があったからである。
それが、敗戦後、昭和23年に廃止されてしまい、昭和42年にやっと建国記念の日と名を変えて復活され今日に至っている。この紀元節の廃止や20年にも及ぶ空白、そして、復活したものの名称が変更されたことは、戦前と戦後の日本の精神史の断絶を象徴している。
建国記念の日には、神武天皇の遥(はる)かなる建国に思いを馳(は)せるとともに、この断絶について改めて問い直すことが重要である。私は、その回想と認識の一つの機会として交声曲「海道東征」を聴くことが必要だということを、ここ十数年繰り返し言ってきた。この北原白秋の作詩、信時潔(のぶとき・きよし)の作曲による名曲は、神武天皇の東征と即位を主題にしたものであり、戦後は長らく封印されてきたからである。
平成26年の2月11日、即ち建国記念の日に、熊本で演奏され、翌年の戦後70年の年に大阪と東京で立て続けて公演会が開かれたことから、この曲の復活が始まった。その後、川崎や札幌などでも演奏会が開かれて、この傑作が多くの日本人によって聴かれる機会が増えていったのは、日本の精神の復興にとって大変よろこばしいことであったと思う。
虚心に歴史を見、経験する
しかし、復活の機運が盛り上がったまさにそのとき、新型コロナウイルス禍によって、幾つかの公演会が中止のやむなきに至った。コロナ禍が収束し、交声曲「海道東征」の演奏会が全国各地で行われるようになることを今再び心から願う。今年は、12月4日に、北原白秋の故郷、福岡県の柳川市で、演奏会が予定されていると聞く。この曲の演奏会が、2月11日に行われることがあるならば、それ以上にふさわしいことはないだろう。
現在、皇室をめぐって様々(さまざま)なことが言われているが、今上陛下が第126代であることを改めて思うならば、初代天皇である神武天皇のことを回想することは、皇室の弥栄(いやさか)を念ずる心の根本にあるべきものだ。私は、コロナ禍中、建国記念の日には、交声曲「海道東征」をCDで聴くことにしていた。また、『古事記』の神武天皇の即位のところを読んでみたりした。そこには、「かく荒ぶる神等(かみども)を言向(ことむ)け平和(やわ)し、伏(まつろ)はぬ人等(ひとども)を退(そ)け撥(はら)ひて、畝火(うねび)の白檮原宮(かしはらのみや)に坐しまして、天の下治(し)らしめしき」とある。今や、日本は「言向け平和」すこととともに「退け撥」う覚悟が求められている。
神武天皇などと言うと、「神武天皇なんていなかった」という戦後的通念にいまだにとらわれている人もいるようだが、文芸批評家の小林秀雄は、講義録『学生との対話』の中で、「考古学的歴史観もよくない」といって「これも歴史と称しながら、歴史にちっとも触れていないのです。たとえば、本当は神武天皇なんていなかった、あれは噓だという歴史観。それが何ですか、噓だっていいじゃないか。噓だというのは、今の人の歴史だ。(中略)しかし、歴史とは、みんなが信じたものです。昔の人が信じたとおりに信じることができなければ、昔の人が経験したとおりに経験できなければ、歴史なんて読まないほうがいい。これは本居宣長の説です」と語った。
この小林秀雄一流の「啖呵(たんか)」の真意を理解すれば、戦後的通念は霧消して、虚心に日本の歴史を見、それを経験することができるようになるだろう。
日本文明保持の意志新たに
私は、神武天皇が祀(まつ)られている橿原神宮には参拝したことがあるが、神武天皇陵はまだ訪ねたことがない。いずれ参拝したいと思い、『皇位継承でたどる天皇陵』(渡部裕明著)を読んだ。その序には「天皇とは日本歴史を貫く背骨のような存在である」と書かれている。建国記念の日に回想すべきなのは、この「背骨のような存在」の初めに位置する神武天皇の遥かな肇国(ちょうこく)の歴史なのではないか。そこに、日本文明の淵源があるからだ。
このような歴史の想起が、これから激化する欧米文明と中国文明との「文明の衝突」の中で、両者とは明確に違う独自の日本文明を保持していく上で不可欠なのであり、そこから次代の日本が創造されるのだ。建国記念の日は、この保持の意志を新たにする日にしたい。(しんぽ
ゆうじ)