自衛隊は日本の誇り
1.前代未聞の感謝デモ
イラクでは噂が伝わるのが速い。昨年12月14日の自衛隊の派遣期間が終わりに近づき、またロケット砲が打ち込まれるという騒ぎが起こると、「自衛隊は帰るのか?」という懸念が瞬く間に広まった。
すると140人の老若男女からなるデモ隊が「日本の支援に感謝する」と自衛隊宿営地に詰めかけ、口々に「帰らないで」と懇願した。同時に「自衛隊の滞在延長を願う署名運動」が展開され、2日間で1500人もの署名が集まった。
実は感謝デモはこれで二度目だった。4月に2度、自衛隊宿営地そばに迫撃砲が撃ち込まれると、サマーワ市民による百人規模のデモ行進が行われた。スローガンは「日本の宿営地を守ろう」というものだった。さらにいろいろな人が宿営地に来て、「申し訳ない。あれは一部のはねっかえりで、イラク国民の意思ではない。どうか帰らないでくれ」と陳情した。
前代未聞のデモに、英米オランダ軍も驚いて、自衛隊に矢継ぎ早に問合せをしたほどだが、迫撃砲を撃ち込んだテロリスト達もこれでは逆効果だと思っただのろう。その後、派遣期間終了の近づく11月まで動きはなかった。
もっともこうした事実は、日本のマスコミはほとんど伝えなかった。逆にパレスチナ自治政府のアラファット前議長の死去を受けてサマーワで行われた「パレスチナ支援デモ」では、20本ほどの横断幕のたった一つに「自衛隊は撤退すべきだ」と書かれていただけで「反日デモ」などと報じた新聞があった。偏向報道もここまで来れば、確信犯という他はない。
2.「カーネル・サトウはサマーワの人々の心に到達した」
自衛隊によるイラク支援は、活動当初からイラクの人々の心を捉えるよう綿密に準備されたものだった。先遣隊隊長として乗り込んだ佐藤正久・一等陸佐は今回が3度目のPKO参加。最初のカンボジアの後に、ゴラン高原で一次隊長を務めており、中東人とのつきあいを体験的に心得ていた。
風貌も中東人風で、豊かな口ひげがよく似合う。現地では「絶対に破らない約束をする」時、互いのヒゲを触る決まりがあるので、相手の家に招待された時などは、ヒゲが重要な役割を果たした。
さらにイラク人の衣装を貰って、食事に招待された時にはこれを着ていった。現地の人々と車座になって、右手で食べる。こうした姿勢をイラク人は「我々の伝統的文化を尊重してくれた」と非常に喜んだ。ある部族長は「カーネル(大佐)サトウはサマーワの人々の心に到達した」と語った。
帰国直前には「イラクから帰ってくれるな。嫁と家は準備するから」とまで言われた。アラブでは妻は4名まで持てるので、あと3人は大丈夫だというのである。
3.「カーネル・サトウを悲しませたくない」
先遣隊の仕事の一つに宿営地の準備があったが、この土地の借用交渉がなかなかまとまらなかった。地主が法外な値段をふっかけてきたからだ。日本のマスコミはこれをさも現地が自衛隊を歓迎していない証拠であるかのように報道したが、佐藤一佐の思惑はもっと深い所にあった。
私には合意を急ぐという気持ちは毛頭なかった。交渉で
ぎりぎりまで粘って、我々の想定額にできるだけ近づけた
いと思っていました。理由があったからです。「我々は占
領軍ではない」ことをイラクの人たちにアピールするため、
しっかりと契約を交わして、お金を払って宿営地をつくる
ことを見せたかった。
それと、我々と同様に土地交渉を行っているオランダ軍
の交渉に影響を与えないようにしたかった。悪い前例を残
さないような妥当な金額で決めたかったのです。ですから、
はなから安易に折り合う気はなくて、時間をかけていこう
と腹を決めておりました。
ゴラン高原での経験からも、中東での交渉事は、じっくり時間をかけて、まず人間関係を作る所から始めなければならない、と心得ていた。そのために約1ヶ月半の間に約10回も会って、時にはお茶を飲みながら、日本の文化を紹介したりまでした。
こうしたプロセスを経て、最後には相手は「カーネル・サトウを悲しませたくない」と言って、きわめて妥当な金額で折れてくれた。
4.「我々はあなた方の友人として、サマーワに来た」
番匠幸一郎一等陸佐が率いる復興支援の本隊・第一次イラク復興支援群がサマーワに近づくと、道行く人々が遠くの方からも大きく手を振った。
最初は外国人が珍しいのかなと勝手に思っていたのです
が、そうではなくて、彼らは日本の自衛隊だとわかって手
を振っていたのでした。子供たちは「ヤーバニー(日本人)」
と声を上げながら走り寄ってきて歓迎してくれました。
装甲車両には色鮮やかな日の丸が描かれている。隊服の右胸、左袖、背襟下にも遠目にもよく目に見えるほどの日の丸をつけていた。多国籍軍側からは「これでは『撃ってくれ』と言わんばかり。お前らはどうかしている」と何度も忠告されたが、イラク人に「自分たちは日本の自衛隊」であることをことさらアピールしたかったからだ。
サマーワにつくと、番匠一佐は現地の人々に繰り返しこう語って理解を求めた。
我々はあなた方の友人として、日本からサマーワに来た。
我々日本も、60年前の先の大戦で敗れ、国土は焦土と化
した。すべてが無に帰し、食料にも困る日々が続いた。そ
んな廃墟のなかから、私たちの祖父母、父母の世代は立ち
上がり、大変な努力をして、日本を復興させた。そして、
その結果、いまや経済力世界第二位という日本を築き上げ
ることができた。
メソポタミア文明という人類にとって偉大な歴史を有す
るあなたたちイラク人は偉大な国民だ。あなた方に同じこ
とができないはずはない。我々は友人として、あなた方が
立ち上がるお手伝いに来たのだ。
イラク人にとっては、日本は同じアジアの国である。さらに自分たちと同じようにアメリカにやられた国だという意識があったようだ。その日本から「友人として助けに来た」という番匠一佐の言葉はイラク人の心に響いたに違いない。
5.意気に感じたイラク人作業者たち
宿営地には建設中の段階から、外国の軍人たちが表敬や見学のために訪ねてきたが、彼らが一様に驚くのは、イラク人作業者たちが、夕方になってもまだ働いていることだった。外国の宿営地で雇っている作業者たちは3時、4時になると仕事が途中でも帰ってしまう。夏場には60度にも達し、風が吹くと汗はすぐに乾いて塩になってしまうほど、それも無理はない。
外国の場合は、イラク人作業者に作業を命ずると、彼らだけを働かせるのだが、日本では幹部自衛官でも、彼らと一緒になって、ともに汗を流した。
宿営地の鉄条網整備の際には、日本人2、3人とイラク人7、8人がチームを作り、有刺鉄線に服はボロボロ、体中、血だらけ汗まみれになって作業を続けた。昼食は分け合い、休み時間には会話本を指差しながら、仕事の段取りについて話し合う。
いったん意気に感ずると、とことん尽くすのがアラブの流儀だ。終業時間の5時を過ぎても、まだ隊員と一緒にブルドーザーに乗って働いているイラク人の作業者もいた。
6.「自衛隊の水」で「子供の病気が治った」
600名の隊員による支援活動が始まった。6時に起床し、洗面・朝食後、8時からの朝礼ではイラク国旗と日の丸の掲揚、ラッパによる両国国歌の演奏。それから5時の終礼まで作業が続く。
復興支援業務の柱は、給水、医療、公共施設復旧である。宿営地の北側にあるユーフラテス川の支流の運河から水を引いて、4台の浄水車で一日80トンから100トンの飲料水を作る。これを日本のODAで寄贈した日の丸つきの12両の給水車で、自衛官から運転の方法を教わったイラク人ドライバーが配る。これはイラクで殉職した故・奥克彦大使のアイデアだった。
ユーフラテス川の水は水質が悪く、飲めば100%アメーバ赤痢にかかってしまうのでイラクの人々は決して飲まないそうだ。戦闘で上水道が破壊されると、イラクの人々は浅い井戸の非衛生的な水を飲まなければならず、まさに死活問題である。「自衛隊の水」で「子供の病気が治った」など、感謝の声が多く寄せられた。
医療支援は、直接現地人を治療するのではなく、ODAによる医療器材や薬を供与し、自衛隊医官がイラク人医師への最新医療技術の教育を行った。特に「いくら立派な機材を入れても、病院が汚れているのが一番問題なのだ」と説明することで、掃除が行き届くようになり、「自衛隊が行くようになってから病院が綺麗になった」と評価された。
金にまかせた派手な援助ではなく、人々の生活に不可欠な基盤を地道に復興する、というのが、現地の人々に最も喜ばれる支援のあり方だろう。
7.「そこは日本にやってもらいたい」
また、あくまでイラク人が自分で復興するのを支援するのだ、という方針は、学校や公共施設の復旧活動でも貫かれた。一つには、なるべく現地の業者を使うことで、現地の雇用を創出して、深刻な失業率に歯止めをかけるためだ。
この点は他国の部隊や支援機関も同様だったが、彼らが業者にほとんど「丸投げ」するのが多かったのに対し、自衛隊はプロセスを大事にした。佐藤一佐はこう語る。
例えば、学校の修復であれば、学校長、部族長、評議会
などが横並びでいろんな意見を言いますが、それを統轄す
る人がいない。そこで、我々は一つ一つのニーズを拾い上
げながら、ひざを付き合わして話し合いを続け、それぞれ
のイニシアティブを尊重しながら、青写真にまとめ、関係
各位に合意をとってから、詳細設計に入り、見積もりを作っ
て、業者を募集し、選ぶという手順を踏みました。・・・
初めから丸投げしたほうが楽なのですが、我々は6月に
予定されていた主権移譲後のあり方というものも視野に入
れていましたので、このような過程を丁寧にすることも大
切な復興支援の一つだと考えたのです。
実際、イラクの人たちの信頼は厚くなり、「そこは日本
にやってもらいたい」という要望がどんどん増えていきま
した。そして、主権移譲後は、他の国の部隊やNGOも日
本のやり方に近づいています。
こうした活動で、小学生からも「学校修復のおかげで、きれいな教室で勉強できる」と言ってもらえると、疲れも吹き飛んだという。
8.ユーフラテス河の鯉のぼり
5月5日のこどもの日にユーフラテス川に鯉のぼりをか
けて泳がせ、戦禍のなかでたくましく生きるサマーワの子
供たちに見せてやりたいのです。子供さんが成長されて、
タンスのなかで眠っている鯉のぼりがあったらご提供いた
だけないでしょうか?
番匠一佐がイラクに来る前に駐屯地司令官をしていた北海道・名寄市の市民にこう呼びかけると、200本以上の鯉のぼりが集まった。
4月29日には宿営地そばに迫撃砲弾が撃ち込まれて、鯉のぼりプロジェクトの中止も検討されたが、この局面だからこそで、敢えてこのプロジェクトを遂行しようと決定を下した。幅100メートルのユーフラテス川に多くの鯉のぼりをかけ、同時に番匠一佐から次のようなメッセージが発せられた。
日本では宗教に一切関係なく、父親母親が成長を祈って、
こどもの日に鯉のぼりを掲げます。下流から上流に向かっ
て流れに逆らい勢いよく上がっていく鯉は成長や健康の象
徴です。子供はその国の将来そのものであり、イラクの子
供が明るい未来を築いてくれることを祈念します。
サマーワ市民百人規模の「日本の自衛隊を守ろう」という前代未聞のデモ行進が行われたのは、この翌日のことであった。
9.「日本人の財産」
番匠一佐がイラク支援を通じて感じたのは「日本人の財産」ということだそうだ。
日露戦争で頑張った日本人、戦後の廃墟から世界第二位
の経済大国にまでつくり上げた父母、祖父母の努力。いま
に至ってもサマーワ最大のサマーワ総合病院は20年前の
日本のODAによってできたものです。その当時の日本人
がどれだけ立派だったか、という話をよく聞いたし、サマ
ーワでは日本の車、電化製品の信頼性が異常なほど高い。
今回ほど、自分が日本人あるいは自衛官であることを誇り
に思ったことはありませんでした。
今回の活動も「まさに日本人がこれまでに積み上げてきたものに見守られていた」という。
「日本と日本人はイラクで非常に尊敬されている」(アラウィ・イラク暫定政府首相)という事実は、過去のODAや経済活動で築いてきた「日本人の財産」である。今回の自衛隊の支援活動は、その財産目録に新たな一頁を加えたと言える。
「自衛隊の水」を飲んで病気から治った子供たち、自衛隊の手で修復された学校に学ぶ子供たち、ユーフラテス川の鯉のぼりに歓声をあげた子供たち、これらの子供たちが大人になった時、彼らは日本の心からの友人となるだろう。食料やエネルギーの大半を輸入に頼るために、世界が平和でなければ生きていけない日本人にとって、こういう友人ほど大切な財産はない。